武蔵美通信を受けた理由

武蔵美通信を、わたしは3年半やりました。2016年4月入学、2019年9月卒業です。
入学するには人それぞれにいろんな理由があります。
ご参考までに、わたしの場合を含めて、いろんな人たちが、なぜどのように入学を決めたかを、見聞きしてきた範囲で書いておきたいと思います。

武蔵美通信を受けるいろいろな理由

通信制大学は、高校を卒業してすぐ入学するという人はむしろ少なく、社会生活を一定期間送って、それでも勉強しなおしたいと思って入る人が圧倒的に多い印象でした。
わたしは油絵学科絵画コースに行きましたが、絵画をやろうという人たちは比較的年配の方が多かったように思います。
下は19歳から、上はなんと92歳の方にも逢ったことがありました。
理由は人それぞれ、本当に様々です。たとえばこんな感じ。

●高校を卒業して美大に行きたかったが、親に反対されて行けなかった。年月を経てやはり絵の勉強をしたくなり、時間的経済的余裕もできて行くことにした。
●仕事でイラストレーターをしているが、自己流なので、スキルアップのためと、一度きちんと系統的に勉強したいと思って入学した。
●地方に住んでいたが東京に転勤になり、スクーリングに物理的に通えるので受けることにした。
●地方に住んでおり、近くの都市で出張授業や試験をやってくれることがわかって、入学を決めた。
●定年を迎え、時間に余裕ができたので、自己研鑽として通うことにした。
●絵を習いたいと思い、町の絵画教室やカルチャースクールに行ったが、物足りなくなって美大の授業を受けに来た。
●娘が武蔵美(通学課程)に入学した。興味を持ち、母親の自分も受けてみた。
●(中にはこんな人も!)友達が行くというので、よくわからないけど自分も絵をやってみたいと思って申し込んだ。武蔵美のことはまったく知らなかった。

デザイン系と比べると絵画系の人たちは、比較的のんびりしているように思えます。何年かかってもあまり気にせず、急いで卒業するよりは、身に着けたいことをじっくり勉強しているという印象です。最長で8年まで在学できるので、時間とお金が許せば、2年生を2~3回やって専門課程に進み、3年生をやり、そのあとまた4年生を2~3回やる、という人も珍しくありません(1年から2年へ、3年から4年へは自動的に進めます)。
いろいろな科目がありますが、取りたい授業の時間帯が重なってどちらかを選ぶことになってしまうと、取れなかったほうの授業は翌年取る、ということになるからです。

また、ごく一部ですが、中にはこんな人たちもいます。上記の人たちと違うのは、年齢が若く、入学した時点でかなりの実力を持っていることでした。

●美大を目指して美大芸大受験予備校に行ったが、希望の大学に入れず、浪人してもう一度受験するか通信に来るか迷って通信に来た。3年から、通学課程への編入試験を受けて編入したい。大学院へも行きたい。
●デザイン系の専門学校を卒業したが、絵の授業で絵に興味を持ち、本格的に勉強したくなって受けた。将来はプロの画家になりたい。

また、デザイン科に入学した人たちはこんな感じでした。

●一般の会社に就職したが、デザイン系の仕事に転職したい。それには、美大出身でなければ難しいため、「武蔵野美術大学卒業」という学歴と実力が必要。
●同様の理由で、会社の中で企画制作部門に異動したい。
●同様の理由で、フリーで独立したい。

こちらは圧倒的に、転職や就職を視野に入れている人が多いように思いました。特徴は、効率よく最短での卒業を目指している、また、新しく別の仕事や挑戦したい分野がみつかると、わりと心残りなくキッパリやめてゆく人も多いことです。
それだけ、自分の方向性を真剣に考え、人生の転機をかけているのだといえるかもしれません。

武蔵美通信、わたしの場合

さて、わたしの場合はこんな感じでした。ちょっと長くなります。

美大受験に猛反対された高校時代

わたしの父は、まだ始まったばかりの頃の武蔵美通信を出ています。当時はまだ2年制のデザイン科しかなかったらしく、4年かけて卒業したそうです。それが地元の新聞社に勤めていた時で、その頃にわたしも生まれました。
その後、父は広告系の仕事に変わり、やがてデザイナーとして独立しました。武蔵美通信を受けて職を得て、わたしたち家族を養ってくれたわけですから、つまりわたしは武蔵美通信に大きくしてもらったことになります(笑)。
なので、子供の頃から父のアトリエや仕事場を遊び場にし、専門的な画材や資料に親しみ、まさにものを作る環境で育ちました。自分も将来、こういう仕事をするんだと、もうごく自然にあたりまえのように思っていました。
ところが、高校3年で進路を決めるとき美大を受けたいと言うと、両親から猛反対されました。
すでに美大芸大受験予備校に通っていて(父はそこで講師をしていた)、デッサンや平面構成のトレーニングをしていたので、とても心外でした。
同じ予備校に通っている人たちが、東京藝大をめざして何年も浪人していたり、美大をめざして毎日デッサンや油絵を描いているのを見ていて、自分も目指すのがあたりまえのように思っていたのです。
夏期講習で習った平面構成が面白かったので、デザイン科に行きたいと思っていました。東京藝大を第一志望に、多摩美と武蔵美なら武蔵美のほうを受けるのだと。
反対の理由は、実家が広島だったこともあり、東京になんて危なくて行かせられないというもので、大喧嘩の末、地元の国立大学の教育学部中学校美術科(中学や高校の美術の先生になるための学科)か、当時あったお嬢様系短大の美術科なら行ってもよい、と言われ、短大には行きたくなかったので国立大を受けました。見事に落ちました。
1年だけ浪人させてもらうことになり、条件として昼間はふつうの勉強の予備校へ、夜は美大芸大受験予備校に通いました。そうやって1年後、再び受験のシーズンとなり、やはり両親と激しく戦いましたが、実家から出ることはどうしても許しが得られません。それでもあきらめきれず、国立大と試験日の違う美術系大学を探したところ、金沢美術工芸大学が唯一同時に受けられそうだったので願書を取り寄せて内緒で受けようとしたのですが、ばれてしまい、大もめにもめて、けっきょく国立も落ち、傷心のまま滑り止めで受けていた地元の私立大学(商学部)に入学しました。

地元の画家に弟子入り

大学では、予備校で知り合った先輩に誘われて美術部に入部、油絵を描き始めました。この大学の美術部はかなり精力的に活動していて、県内の学生連盟の中心だというような話を聞いていたし、高校の授業以来ほぼ初めて油絵具を使うこともあって、期待で胸を膨らませていました。
ですが入部してすぐ、その考えが甘かったことを思い知らされました。
わたしがこれまで美術だと思っていたのは、泣きながら歯をくいしばって石膏像と向き合い、短期間で飛躍的にデッサン力を伸ばして基礎力を磨くという、美芸大予備校の世界です。自分の作品世界とは、そういったゆるぎない基礎があって初めて、その上に構築されるはずのものでした。ですが、そんなことを、そもそも普通科大学の部活動に求めること自体、筋違いだったのです。
美術部は学生の自主的な集まりで、ほとんどの人が基礎を勉強しないまま、自己流の(言葉は悪いですが)拙い作品を作っていました。デッサンも色彩の基礎も、あたりまえに身に着けている人はいません。もっと手に負えないことに、自己流の拙い人同士で、相手の作品を指導したり批評し合ったり、ときには激しく批判したりするのです。わたしから見れば、もうありえない世界でした。
たとえばせめて高校の美術部のように、美術の先生が顧問にいて指導してくれるとかならばまだ救いはあるのですが、「指導者がいると皆絵がその人に似てくる。作品の個性をつぶす」という理由で指導者はつけない方針と言われました。指導者に習いたければ、自分で何とかするしかありませんでした。
大学には芸術学科はありませんでしたが、一般教養で一科目だけ「芸術」という科目がありました。講義だけの科目ですが、専門の先生が2人いたので、逢いに行き、そのうちの一人、当時、日展の評議員をされていた岡崎雄次先生に頼み込んで弟子入りしました。
美術部のほうは、やめることも考えましたが、吹き抜けの広いアトリエがあってかなり大きな作品も描けること、画材などを安く分けてもらえること、年に何度か作品展があって美術館やギャラリーで作品を発表できることなどのメリットもあり、とりあえず続けてみることにしました。
このようにして、毎日美術部の活動をし、週に一度、岡崎先生のアトリエに通い、美術展やコンクールに出したりしながら、自分なりに絵に没頭する4年間を過ごしました。先生のアトリエに通いだしてからは実力もついて、美術部では誰一人入選しなかった県美展に毎年入選するようになり、コンクールにも挑戦したり、また大学では、学内のサークルや行事のポスターやパンフレットなどのデザインを頼まれたりと、それなりに充実した日々を過ごしました。

絵から離れていた20年あまり

大学を卒業すると、印刷会社に就職しました。新しくできるクリエイティブ部門で、同じく、新しく採用されるベテランデザイナーのアシスタントをしながらデザインの勉強をできると聞かされていました。面接で、大学時代に自分がデザインした印刷物をたくさん持ってアピールしたのがよかったようです。受験のときは美大のデザイン科に行きたかったので、仕事としてデザインに携われ育ててもらえてプロになれるなら、ほんとうに喜ぶべき展開でした。
ところが、わたしと同時に採用された上司は、デザイナーではなくコピーライター出身のクリエイターでした。自身で手を動かしてデザインする人ではなく、外注のデザイナーに指示を出して制作物を作る立場の人だったのです。当時はよくあったことなのですが、社内には制作の専門家がいなかったため、企画を考える人は皆デザイナーだと勘違いされていたのでした。会社側は、印刷物のデザインを外注しなくていいよう、社内でデザイン作業をしてくれる人を雇うつもりだったのですが、どこでどう話がくい違ったのか。。。
ともかく、そこから、わたしの人生は違う方向へ向き始めます。
デザイナーではなくプランナー(コピーライター)のアシスタントになったため、広告のコピーや販促企画、イベントなどの下働き的なことが仕事になり、ほかにも営業や経理などいろんな仕事をしました。最終的に、文章を書くことが面白くなり、出版に興味を持って、ライターの仕事で東京に行くことを考え始めました。
その頃、実家では、7歳下の妹がちょうど大学受験で、武蔵美を受けたいと言いだしました。学校の先生からも勧められたようでした。
いちばんの問題は、わたしのときに猛烈反対した両親ですが、7年経てば状況も変わり、また免疫もでき(笑)、行かせてやってもいいかという気になっているようでした。あとで聞いた話ですが、わたしの時に反対したのは、まだ家のローンも残っていて経済的な理由も大きかったようでした。
わたしのときに力づくでやめさせたわけですから、妹のことでは、両親はまるで腫れ物に触るようにわたしに接してきます。妹には、まずわたしに許可を得ろと言ったそうでした。
わたしは、自分が受けられなくて辛い思いをしているので、妹の気持ちはよくわかります。小さなころからずっと一緒に育ってきた小さな妹の悲しむ顔なんか見たくありません。受けさせてやりたいに決まっています。
そんなこんなで話し合って、妹は両親から「浪人はさせない」という条件をもらい、わたしが行ったのと同じ美芸大予備校に通って、美大を受験することに。いくつか受けたうち、武蔵美短大の生活デザイン科に現役合格しました。
その後2年ほどして、わたしも、文章を書く方面の仕事に進むために上京することになります。生半可な覚悟ではできないので、絵を描くことはいったん諦めました。それから約20年あまり中断した後、再び絵を描き始めます。そのあたりの経緯はコチラに。

●ライターからアーティストへ

絵を描けば描くほど専門的な勉強をしたくなる

正確には22年間中断していた絵を再開してすぐ、わたしは二科展に応募しました。
初めて応募した年は、ひまわりを描いた80号3点を出品し、そのうちの1点が入選しました。
翌年もやはりひまわりを描き、80号2点と100号2点の計4点を応募、100号1点が入選しています。
わたしのテーマはすっかりひまわりになり、毎回、今度はどんなひまわりを描こうかと頭を悩ませることになりました。
なぜひまわりを描くことになったかは、コチラ。

ひまわりを描くのはなぜか

同じモチーフをずっと描いているので、何かを変えてゆかなければたくさんの作品を描けないし、上達も発展もしていけません。自分の持つ表現の幅に限界を感じてきたとき、思い出したのが武蔵美通信のことでした。
美大で専門的な勉強をすれば、こんなときどうすればいいか突破口のようなものが開けるのではないか。迷っても悩んでも、それを自分で解決する方法がみつけられるのではないか。
絵を描くとはどういうことか、作品に向うとはどういうことかを、美大のカリキュラムの中できちんと学んでみたい……。

また、絵を再開したときから、やるならプロの画家になるしかない、とも思っていました。
画家にはいろんな人がいますが、有名な人にはやはり美大を出ている人が多いです。東京藝術大学卒業、武蔵野美術大学卒業、多摩美術大学卒業と、経歴にはあたりまえのように書かれています。
画歴に美大卒業の経歴を入れられたら、というのもありますが、それよりも、美大や芸大を出た人があたりまえのように持っている素養、実力とか共通言語のようなものを、自分も持ちたい、持たなければ話にならないんじゃないか、と思うようになったのです。

文章を書く仕事に携わっていた頃は、最終的な目標を「小説」に置いていました。デビューをめざしていくつもの新人賞に出しながら、自分が文学部出身じゃないことをだんだんコンプレックスに感じるようになっていました。書けば書くほど壁に当たるようになっていたのですが、自分がぶつかっている壁は、文学部で文学を基礎から学んだ人なら解決法のわかることなのじゃないか、とずっと思ってきました。独学の人だってたくさん小説家になっていますし、「そんなこと関係ないよ」というのはたいてい文学部出身の人たちでしたが、その人たちが話す、ちょっとしたところに出てくる文学的な素養のようなものが、まぶしくてしかたなかったのです。
きっとそこには、外部の者にはわからない秘密があって、そこに行けば、今のこのなにか足枷のようなものがスポッとはずれて自由になれるんじゃないか、と思っていました。

それが正しかったのかどうかはわかりませんが、それと同じことを、絵を描くことに関しても、やはり感じていたのです。
辛い思いをしていたその頃の二の舞にはなりたくない、今度はちゃんと最初からきちんと勉強して、何もかも整えてからプロを目指したい、という思いから抜けられませんでした。
わたしが武蔵美通信に行きたいと思ったのは、そんな理由からでした。