絵画Ⅱスクーリング、事件が起きたのは深夜!?

絵画Ⅱ武蔵美通信スクーリングでは、初めて裸婦モデルさんを描きました。
初日、まずは、科目の受講者全員が集まって大きな講義室で前提講義が行われます。注意事項を聞き、巨匠の名画や、これまでの学生参考作品などを見てから移動。実際に授業が行われる教室に20人ずつぐらい分かれて入ります。
前の週に『絵画Ⅰ』が終わったあとで、引き続き絵画Ⅱを受ける人たちのために部屋割りが発表されたので、油彩の道具などはすでに運びこんでありました。わたしの教室は2号館。1号館の隣にある大きな建物です。

シラバスはこちら。若干内容が変わっているかもしれませんね。
https://cc.musabi.ac.jp/campus/wp-content/uploads/sites/2/2018/01/2017_kaiga2.pdf

受講:2016年 夏スクーリング

絵画Ⅱは変則的なスケジュール

絵画Ⅱのテーマは「人体を描く」。スクーリングでは初めて裸婦モデルさんを描きます。
講師は、初日と最終日がK教授。中4日間の指導はT先生。ちょっと変則です。
K教授は日頃は通信ではなく武蔵美通学課程の学生さんたちを教えておられるそうで、今回の『絵画Ⅱ』にかぎって、スケジュールも通学生の時間割で行われることになりました。
『絵画Ⅰ』は前半3日間がデッサンで後半3日間が油彩でしたが、『絵画Ⅱ』は毎日、午前中がデッサン、午後が油彩というスケジュールです。
デッサンと油彩とではモデルさんのポーズが変わりますが、それに伴い、アングルを変える学生がほとんどなので、椅子の足にバミリしておいて(位置がわかるようにテープなどを貼るんですね)、毎日、お昼時間に場所を移動して午後のスタンバイをしなければなりません。これがちょっと大変でした。

美大の授業では、人体がテーマの場合によく裸婦モデルさんを描きます。これから何度となく描いてゆくわけですが、今回は初めてということもあり、かなり厳しく注意事項が言い渡されました。
▼詳細はコチラ▼

裸婦モデルさんを描くときに厳守すること。
https://kayoko611.com/rule-of-nude-model

2号館はトイレが少なくて困る件

裸婦モデルさんを描く場合、20分のポーズが始まる前にスタンバイしていなくてはならないし、終了するまで部屋を出られません。そこで困ったのがトイレです。
使ってみてわかったことですが、鷹の台キャンパスの2号館はトイレが少ないのです。
1フロアにひとつしか女子トイレ(男子トイレも)がなく、しかも個室がたったの4つ。1フロアにはアトリエが何部屋もあって、それぞれ20人程度の学生が学習をしています。裸婦モデルさんを描くときは、皆同じタイムスケジュール。つまり休憩時間も決まっているので、皆が一斉にトイレに押し寄せます。絶対に次のポーズに遅れられないので、順番がなかなか回ってこないときはけっこう焦ります。
ちょっとでも出遅れると並んで待つことも多いし、誰かが長時間個室にこもっていたりすると(なぜ?と思いますが実際にある)、とたんに回転が悪くなってしまうのです。
わたしが2号館より断然4号館が好きなのは、こういったトイレ事情もかなり大きいです。

絵画Ⅱで起きた思いがけない事件とは

さて、午前中はデッサン、午後は油絵というスケジュールをこなしながら、メンバーもずいぶん打ち解けてきたある日、それは起こりました。
いつものように「おはようございます!」と元気よくアトリエに入ったわたし。いつもは「おはよう!」とにこやかに挨拶してくれる年上同級生何人かが、その日にかぎってシーンとして目を合わせようとしないのです。「???」と思って準備を始めようとすると、なんと!!
壁に貼ってあったデッサンのうち一枚が、床の上に落ちているではありませんか。見ると、メンバーの中でも、きっとわたしが見る限りもっとも実力の高いHくんのものでした。
午前中に木炭デッサンが終わると、午後の油絵に向けて席を移動するのですが、そのときに、途中まで描いたデッサンを壁に張っておく決まりになっていました。
で、前日の午後には、もっというと夕方帰るときには壁に貼ってあったデッサンが、つまりは、夜のうちに剥がれて、落ちてしまったのです。落ちただけなら拾えばいいのですが、なんと、運悪くその下にはわたしが油彩で毎日使っているパレットが。。。
パレットはむき出しで、もちろん絵の具が渇いているわけがなく、デッサンには絵の具がべったりくっついてしまっていました。
その時の気持ちは、今思い出しても冷汗が出てくるほどです。シーンとしてるわけでした。精魂込めて毎日描いている作品を、台無しにしてしまった……そんな事態、誰も関わりたくないでしょう。
それにしても、仲間の作品が床に落ちてるのをわかってて、誰一人として拾ってくれていないのもいかがなものかとは思いますが、まぁそれは置いといて。
Hくんは、何度か使いまわしたらしいテープでデッサンを壁に留めていたようで、テープは汚れてくちゃくちゃでした。たぶんもう粘着力がなくなっていたのでしょう。これなら落ちても無理はないな、と思いましたが、そうは言っても、わたしがパレットをビニールか何かで覆っていれば避けられた事故です。わたしのパレットが彼のデッサンを汚してしまったことには違いありません。
Hくんが来るのを待って、もうとにかくすぐに謝りました。人柄のとてもいい人だったようで、とりあえず怒りはせず、淡々とケアをして、作業を続行してくれました。
かろうじて、絵の具がついたのが木炭紙の裏側の、バックの部分で、人物の部分にまでは及んでいなかったのが幸いでした。
でも、これでHくんの作品の評価が下がってしまうようなことにでもなれば困ります。先生が来られてすぐに、報告しました。
わたし「先生! 事件が!!」
T先生「事件!?」
ことの顛末を説明。先生は研究室で話し合ってくださったらしく、「壁に貼るように言ったのはこちらだし」、Hくんの作品は、汚れについては採点に加味しない、わたしのこともペナルティはなしにしてくれる、と告げられました。やれやれ。

ちなみに、翌年、絵画Ⅱを受けた友人によると、この午前デッサン、午後油絵というタイムテーブルは廃止され、前半3日間デッサン、後半3日間油彩というスケジュールに変わっていたらしいです。
もしかしたら、この事件が原因のひとつになったのかもしれません。

人体は、見えない部分もモデリングする

さて、事件のことで長くなってしまいましたが、本題に入ると、このスクーリングで学んだのは、「モデリング」ということでした。二次元に立体を立ち上げてゆく作業、と言えばわかりやすいでしょうか。
西洋絵画の歴史では、セザンヌは近代絵画の父と言われています。セザンヌは二次元の絵画に、「面で描く意識」を持ち込みました。対象を線でとらえるのではなく、立体としてどのような面で構成されているかを見つけ出す、ということですね。
裸婦を描く場合も、ただ明暗を追うだけではなく(明暗を追うことは基本ですが)面という意識を持って明暗で分けていく、極端に言えば、目の前にある形を、立方体や直方体などの形に分けて、そこにはなくても線を入れてみたりして描写する意識です。
以下の写真は石膏像のアグリッパですが、それを面で分けるとこの写真のようになります。

この面をもっと細かく分けてだんだん小さくしてゆくと、下のような曲線で構成された立体になるわけですが、上の大まかに面で分けた意識を持って、面を見つけていく、ということです。これがデッサンの基本なんですね。
受験の頃には、こういったことをもうほんとに頭がおかしくなるぐらいやっていたのですが、久しぶりに思い出した感触でした。

絵画Ⅰ、Ⅱと木炭デッサンをやってきて、自分の癖のようなことがわかってきました。それは、木炭を乗せて指で押さえると、ボソボソした質感になること。他の人たちのデッサンとなんだか違うのです。
先生にアドバイスいただいて、違う種類の木炭を買って試してみたりしましたが、違いはよくわかりませんでした。指の脂の関係かなと思いますが、これからの課題です。

先生が複数いてアドバイスが異なる場合どうするか

それともうひとつ、困ったのは、油彩について、K先生とT先生からまったく正反対のアドバイスをもらったことです。
人体のバックをどうするか……具体的な背景(部屋の壁や天井、後ろにいる人など)を描くか、描かずにこのまま色彩や濃淡で表現するかで迷っていたとき、K先生は前者、T先生は後者を勧めてくれました。多少の違いならともかく、2人が全く正反対の方向性なので、迷いに迷いましたが、最終的には、色彩と濃淡で表現しつつも、背景に見えていたパーテーションの線をすっと一本入れるという、両方の案を採用したようなどちらも採用しなかったような、どっちつかずの処理をしてしまいました(笑)。

こういう状況はわりとあるようで、知人からこんな話を聞いたこともあります。
科目名は省略しますが、その授業は大人数が一度に受けるため、何人かの先生が回って見てくださる方式だったそうです。で、ある部分の処理についてA先生とB先生の助言がやはり正反対で、悩んだ末にB先生の案を採用すると、それを見たA先生が怒ってしまい、以降あからさまに避けられるようになったとか。。。これはまぁ極端な例だと思います。感じ方の問題かもしれませんが、たしかに先生方だって人間なので、作品をよくするための助言を否定されたら、面白くないだろうなとは思います。
「あっちを立てればこっちが立たず」という状況、困りますよね。上達したくて一生懸命やっているだけなのに、こういうことで悩まされるとは。気にしない人なら受け流して終わりでしょうけど、かなりのエネルギーを使ってしまう人もいるでしょう。

こんな場合、どうすればいいんでしょうか。
あたりまえのことですが、最終的には自分自身が決めることです。誰に何と言われても、考えに考え抜いて自分で決断を下さなくてはなりません。作品は完成すればその1枚がすべてだし、作者は他の誰でもなく自分です。たとえ結果が悪かったとしても、自分が決めてそうなったのなら納得もいきますよね。作品に「あの人にこう言われたからこうなった」と解説を添えるわけにはいかないのです。
何より、作品と最後まで向き合って方向性を決めるというのは、自分の作品について責任をとるということで、それはものを作る者にとっては最も大切なことではないでしょうか。
わたしたちが勉強しているのは、究極をいえば作品を世に送り出すための責任のとりかたなのかもしれません。作品のために、とことん悩んで悩みぬいて、決断を下す習慣をつけておくことが、作品と向き合う力をつけていくということではないでしょうか。